昭和47年4月15日 朝の御理解     (末永信太郎)

御理解第35節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々嬉しゅう暮らせば家内に不和はない。




 家内に不和はないという、信心は家庭に不和のなきが元と仰いますが、家庭の中が円満でないといけません。円満であるのと、円満でないのというのは、もう大変、それこそ地獄と極楽のようにあると思うんです。ね。それには、例えば、その、思い方として、ね、日が、毎日を元日の心で暮らせ、と。日が暮れたら大晦日と思うてというような、そういう思い方が大事だ、と。
 けれども、それこそ、思おうとして思えるものではないのですから、それが、そういう風に思えれるおかげを頂くために、信心は日々の改まりが第一じゃと仰る。信心、日々の改まりということに精進をさせて頂いておると、心が確かに清々しかったり、ね、または、嬉しい心というものが頂けるものです。ね。
 ですから、期せずして、まあ、元日のような心にも、まあ、一年を締めくくった時に、ね、あれも済んだ、これも済んだというように、その、締め、一日の締めくくりの時に、それこそ大晦日のような心で、もう、いよいよ明日は元日を待つばかりというような心の状態で生活が出ける、と。そういう心の状態でおかげを頂いたら、家庭に確かに不和はないだろう。
 信心は家庭に不和のなきが元と、もう、元と言われるくらいですから、これでおかげの受けられんはずはありません。家庭が円満に行くということ。誰だって、家庭が円満に行くようにありたい。それを願わない者はないのですけれども、ただ、それを努力するとか、演出してからといったようなことではいけません。
 ただ、お互いが辛抱し合うておくだけでは、それはなるほど、家の中に波風が立ってないようであり、まあ、こっとると言わんという、そのように見えるのですけれども、ね、心の底にはいつも何かがある、ただそれを辛抱しておるというだけではいけんのです。まあ、私が黙って、私が辛抱しとけば、私が馬鹿になっとけばと言うのではいけん。そういうのは、いつかは爆発する。ね。ですから、そういう辛抱をせんで済む、言うなら有り難いとか勿体無いとか、相済まんとかといったような心で一切が硝化して行くような状態でなからなければ言えんわけです。そのためには、信心は日々の改まりが第一と仰る。
 もう、本当に改まらせて頂くということになり、自分というものを本気で見極めさせて頂くということになると、改めねばならんことの多いのに、もう驚くばかりです。それでも、まだまだ気が付かんことがあるです。私は昨夜、今朝方まで、もうずうっと、まあ、一時間おきぐらいには目が覚めたんですけれども。その目が覚める度にお夢を頂いておった。言うなら、こう、一齣一齣ですね。その、お夢が。そのお夢の全部がです、自分で気が付いてないところの改まらなければならない事ばっかりでした。
 本当に、こうやってお夢頂いてみてですね、初めて改めてです、はあ、こげんとこも改まらなきゃいけんなあ、と思わせて頂きました。まあ、それの一、二を、あの、はっきりしとるのを申しますとね、ちょうどあの、駅で待つあの、長いベンチのようなところへ、私と家内とかけてるんですよ。
 ほれで、家内はちょっと何か(  )か何かに立ったようでした。そこに、ある人が、ここは席が空いとりますかって、こう言うんです。ちょうどそこには、二人半ぐらいかけられる席が、三人じゃちった無理なんですね、やはり。それで、その横に家内が立っとりますから、まあ、人が席を取らんごと、鞄か何かこう置いてるわけなんです。いいえ、ちょっと家内が立っとりますちゅうたら、ああ、そうですかと言うてから、ね。それから、あの、家内が帰って参りましたので、お席に付いたら、無理をすれば三人座れるとですよね。ほれで、心の中じゃそう思うとってですよね、はあ、この鞄ばいっちょう向こうへやりゃ、あの人もかけられたとに、と思っとるようなお夢でした。人に譲ろうというね、もう、本当に限りなく美しゅう、美しゅうとこう、言うてもおるし、でなからにゃならんと思い込んでおるけれども、こういう時に、こういうちょっとした汚い心が出てるんです。人に譲るまい、さあ、どうぞと荷物を(  )よけて。ね。
 その、言うたら少しは窮屈になっても、それが、ちょうどはっきり分かる、二人半ぐらいかけられんですよ。もう、本当になるほど、こういう例えば、言うならば汚い心があるということです。それから一つは、何か道連れになった人とずっと、ずいぶん長く、あんまり夢中になって話しよるもんですから、私は行かんならんところも通り抜けてから、ずうっと、こう行きよるようですもん。で、色々話し、あらあ、私はこれ、もう、通り過ごしてきた、あんまりお話に夢中になっておった。で、色々話しておる内に、私はもうちょっと、すぐそこでシナ料理を経営しておりますと、こう言われる。
 まあ、ここまでみえたんですから、ちょっと寄りなさいませんかち言いよんなさると。私はだから、いいえ、もう、道をちょっと行きすぎっとるけん、後戻りすれば良いとです。それは、私が思いよることです。シナ料理ばしござるとで、ちょっと寄ったら、またシナ料理の出るかん知れんち心の中で思いよる。もう、おかしい、おかしいね。あん、それ全然知らない人ですよ。ね、知った人か何かなら兎も角ですけれども。
 もう、それこそ、私がシナ料理が好きなもんですからね、やっぱ心の中に、卑しい心ですよ、言うなら。私が、もう、すぐそこの先でシナ料理を経営しよる。で、まあ、ここまで来なさったっじゃけん、まあ、ちょっとお寄り下さいませんか、と。お茶なっとんあげましょうという訳なんです。
 だから、お茶だけじゃなくて、これはシナ料理ぐらい出るかも知れんて。(笑)心の中に、ちょっとかすめる心の中にですね、まあ、自分でも恥ずかしいような心、自分でも浅ましいような心。まあ、何と汚いと、もう、全然こういう心には気が付いてないくらいです、自分で。それは気が付いておるところだって、ずいぶんあるんですよね。けれども、気が付かない。それを一晩中頂いておった、そういうような絵。
 いやあ、まあ、本当に、信心は日々の改まりが第一と仰るが、本当に、今日そして、ここ頂くと35節のここんところですから。なるほど、日々の改まりが第一だということをですね、よっぽど、こんくらいなこつは、もう人間じゃけん当たり前ちゅうたら、もう、改まりはないです。ね。
 わが心が神に向かうて行くのを信心と言うのじゃと仰るように。もう、金光様の御信心をさせて頂く者は、もう、言うなら(一翼?一億?)生神を目指すと言うからね。(一翼?一億?)ということは、もう、全てということ。お道の信心させて頂く者の全てが目指すところは、生神の境地なんだ。出ける出けんは別として、目指すところはそこなんだ。というのは、いつもわれとわが心が拝めれるような心と言うのです、生神とは。生神とはここに神が生まれるということであってと言うのでありますから。ね。
 自分の心の中に、自分で自分の心が拝みたいような心の状態が、だんだん豊かに、広く大きくなって行くということが、お道の信心の、これはもう、焦点です。ですから、どうしても、信心は日々の改まりが第一でなかなきゃならない、と。そこでですね、絶えず私どもの心の中にあらなければならないもの。ね。
 まあ、神様がいつもわれと共に、神われと共にありということなんです。言うなら、神様がいつも見てお出ででござる、聞いてお出でてござる。ね。そういう世界に、いつも私どもは住まわせて頂いておるんだということ。自分の用のある時だけ、神様を引っ張り出して来るというのではなくて。ね。
 そういう、一つの観念というものが身に付いて来るということが有り難いと思うんですね。神様から、ずうっと、こうやって睨まれとると言うと何か気色の悪かばってん、睨まれとるとじゃないですよ。ね。神様にいつも、もうそれこそ、もう、目の中に入れても痛くないというほどしのような目つきで見られておるとです。氏子可愛いという一念で見られておるとです。神様が、こうやって睨んでござるというのじゃないとです。ね。ですから、自分の心掛けの中にです、はあ、ほんに自分にこういう汚い心があった。
 はあ、こんなことじゃいけない、いけないとこう、思う。そういう心の状態の時に、神様がもう、いよいよ目を細めて、可愛い氏子としてのおかげを下さると思うですよね、思いよることが素晴らしかもん。昨日、午後の奉仕をさせて頂いておった。日田の高島さんがお参りをして見えられた。して、ここでその、今度、息子さんのところに、その息子の嫁が家にも神様をお祭りしたい。そして今度、お父さん御本部参拝をされるなら、ぜひその、お神様を受けて来て頂きたいて、お社をね。それで、小さいその御社を今度買うてみえておられた。(御神事?)を、神様をお祭りして頂きたいと、こう言うのです。と同時に、こう、いくらも何か出しよんなさいます。何じゃろうかと思うとこへ、小さい(   )の袋なんです、八波のご紋章の入った。お守り袋の(ことです?)、いわゆる、お守り袋ば買うて来ましたっち。
 孫が5人おりますから、5人の孫にその、買うて来ました。それで、これば孫達に下げさせとこうと思う、学校に行くとんでんどれでん。それで先生、これ、御神米ば治めち下さいと、こういう訳なんです。私はもう、あれがふるふる好かんとです、御神米をこう小さく折ったり畳んだりするとが。まあ、本部の方でも、あの、売店でもです、もう、とにかく(売らんかな?)ですよ。今時のその自動車にね、こう、普通で言うお守りさん的な、お守りさんを、その下げるような、下げ良いような袋が色々出けてるわけです。
 そして、その小さいとを、可愛らしいのを買って来てます。で、私がもう、これがいっちょん好かんばってんから、入れてくれち言うなら、まあ、入れてもやろうばってんからち言うちから。まあ、そう言いながら、神様にそのことをお届けさせて頂いたんですよ。そして、もう本当に、もう本当に神様からお知らせを頂かなければ分からんと思いました。なら今日、私がお夢の中ででもですたい、一晩中頂いておったことはを、私なんか、もう自分で、もう美しいと思い込んどることなんです、もう実を。
 けれどもその、それこそ、もう限りのようにです、はあ、ほんなこと言われてみると、そげんとこがあったというようなものが、あるわけなんです。だから、信心は日々の改まりが第一なのですから、もう、よっぽど自分というものを、それこそ見ること見ること自分を見ること。他じゃない、人じゃない、自分自身を本当に掘り下げて見せて頂くと、本当にそういう改まらなければならないことは、たくさん山積みしておるほどにあるわけなんです、お互いが。神様から教えて頂いてから、初めて気が付くぐらいなこと。
 ほれでその、高島さんにそのことを、私お願いさせて頂きよりましたら、それで私は、なら御神米を五体下げるけん、もう折るとはアンタが折らんのち、アンタが自分で入れんのち御神米五体下げましてね、そして、そのことをお願いさせてもらいよりましたら、その御神米に縄がついとるち。ちょうど、あの、泥棒を括ったようにしてから。それば、こうこうやって引っ張って行きよるところを頂きましてね、はあ、これはもう、これは本当に明日は誰にでん、このことを教えてあげなきゃいけないなと思ったんです。ね。
 御神米というのは、決してこれは、普通の宮寺で出すような御守護とかお守りというもんじゃないて。あのお守りさん的な頂き方をするということはです、その、神様を縄つけて引っ張って行くようなもんですよ。私に付いておいて下さいちゅう。ゴロゴロ引っ張って行きよるようなもん。ね。だからその、孫たちでん、こうやって付けてやるということは、ね、だから、これは例え分かっても分からんなん。
 それを頂かせてもらう大人がです、分からせて頂いて、御神米というものは、いわゆる神様というものは引っ張って行くのではなくてです、もう、神様のお供をさせて頂くということにならなければ、金光様の御信心のこの御神米という意義はないです。ね。それは、どっか行く時に、まあ、災難ば避けるごと御神米ば持って行くというなら、もう、まるっきり神様を、その、何ちゅうですかね。
 その、自分の身を守ってもらうために、その、連れて行くようなもんですよ。ね。だから、そこんところがです、私どもがね、いつも神様のお供をしておる。先ほど申した、もう、いつも神様が見てお出でである、聞いてお出でであるという世界に住んでおる。
 もう、そこには御神米も何もいらんのですけれども、やはり、御神米を押し頂くように頂いて行くということはです、神様、只今から貴方のお供をさせて頂きますというような、いつも、そういう心がまた強く頂けるというところに、御神米を頂いておかなければおられないというな事にもなって来るわけであって。ね。もう、私どもの心ん中に、神様がいつも見てお出でである、聞いてお出でであるというものが身に付いてしまえば、御神米を頂いて行くことも何もいらん訳になるわけです。ね。
 御神米を、ね、(きがえまたないようにと?)言うて、御神米を例えば頂いて行くということは、ちょうど神様に綱つけて引っ張って行くようなことになるのです。ね。そこにね、私は金光教の信心があると思うのです。神様から守ってもらわんならんから、神様をと金光様を唱えるのではない。ね。神様を頂きに頂ききっておくということ。その実感がです、ね、お互いが出けて来れば来るほどに、改まるということは、いよいよ密なるものになって来ると思うですね。
 神様を頂いておる、信心をしておると言うても、ね、その心が、ね、薄い希薄なものであるから、ね、改まらなければならんところも気が付かん。気が付いておっても、まあ、神様は見て見ぬふりをして下さいと言わんばかりなことになって来るわけです。ね。神われと共にあり。神様はいつも私どもと一緒に、ね。
 だから、どんなに神われと共にありと言うて、神様が私どもの上にいつも働きかけておって下さっても、こちらにその心がなかったら、もう、言うなら神様はござらんと言やあ、もうござらんのですよ。神や仏があるもんかという人には、もう、やはり神も仏もないとと同じ働きしかないのです。
 神ありと信ずる心に、神があるのです。神は信ずる者を信ずると仰せられる所以が、そこにあるわけです。しかもその神様をです、(かんだん)なく私どもの心の中に、ね、昼夜の別なし、清いところも汚いところも隔てなく、天地の神はお守りあるぞというそのことをです、私どもの心の中に頂ききってしまうところにはです、もう、御神米の頂いて行く必要もないくらいですけれども、私どもの心は、ね、なかなか、もう、そんなことはないと思うとる心の中に、只今、私が一晩中お夢の中に頂いたように、改まらなければならないところがいっぱいありまして。そういう隙から、いわばおかげが漏れる、神様を遠くしてしまう。ね。もう、とにかく清いところでも汚いところでも同じことなん、神様のお守り下さるということにおいては。
 ね、その実感ですね。昔、ある方が下の病気をしておられた、ご主人が。それで、私が御神米を下げたら、ほらあ、御神米を貼らせて頂くのは有り難いのですけれども、ね、下の方に貼らせて頂いたんじゃ勿体無いと、こう言う。だから、そげなことはなかて。んなら、額口に貼るとは勿体無くないの、とこういうわけ。言うなら、人間の体ぐらい汚いものはないと言われておるが、ね、いわば、下も上もないて。
 額口に貼らせて頂くような思いで下の方に御神米を貼らせて頂きなさいと言うて、まあ、申しましたことがあります。ね。ですから、今度は額口に貼らせて頂く時にです、本当に下の方にでも貼らせて頂くような心持ちで、私は御神米を頂かせて頂いたら、必ずおかげがあると思う。ね。
 そういう頂き方、これも今日の、大晦日と思うたり元日と思うたりという思い方は、そういう意味のことだと、こう思うです。ね。だから、本当に勿体無いというその心であれば、上であろうが下であろうが同じことなんです、勿体無いという心で頂けば。ね。
 今日の元日の心でとか、大晦日の心でと言うのも同じです。ね。いつも私どもはそうありたいのだけれども、ね、だから元日の時とか、大晦日の時なんかは、ああ、一年間を締めくくらせて頂いて、あれも済んだこれも済んだというような、その、働きをしない限りは、明日の元日が元日らしくないから、一生懸命、努力するでしょう。ね。なら元日は、なら、言いたいことでも言わずに、めでたいものを聞いたりさせて頂いて、いかにも元日らしい、それに相応しい、言うなら心の状態を持ち続けたいと努力するようにです。
 ね、日々だって同じこと。ね。元日だけがめでたいという心、いつもがめでたい心、いつもが有り難い心。ね。そういう心を頂かせて頂くためにです、そういう思い方、なら御神米を頂くということも、そういうこと。ね。御神米をここに頂いておると安心。そして、神様のお供をさせて頂くという気持ちでおると、心が安らぐ。その頂き方が、ね、ただ、神様を用のある時だけ使うといったようなことでは、これは、金光教的な御神米の頂き方。いわゆる、神様の頂き方ではないということ。
 そこで、そういうような心の状態がです、いつも頂けることのためにです、私どもが、信心は日々の改まりが第一と仰る、その改まらせて頂くということに精進して行けば、自ずとと元日の心も大晦日の心も、ね、家庭に不和はない。それこそ、辛抱しとくのではない、もう、それが一切溶けてしまうほどしのおかげ。
 昨日の朝の御理解に、ね、頂きましたように、自然の中に溶けこんで行くということは、自然を生かすことであるということでしたね。例えば、家庭、家内の中でもそうです。まあ、どうしたことじゃろうか、家の主人は、もう、どうしたことじゃろうか、家の家内は、と。どげん言うても、子供が言うことを聞かん、といったような考え方。そういう中に、ただ、それを辛抱して堪えとくというのじゃなくて、ね、その中にこちらが溶けこんで行くという心。なるほど、この人はこげん言いよるけども、こうも言いたかろうと思う心なんだ。ね、そういう心で溶けこんで行くんですから、辛抱ちゅうことがないわけです。
 家庭に不和がないということは、そういう意味だと私は思うです。なら、それが、私どもは日々の改まりが第一というところに焦点をおいて、おきますとそういう意味においての家庭に不和のないということになります。家の中に、もう、それこそ大きな声も出らない。ああ、あそこは、なかなか円満だと言いながらでも、さあ、言葉使いは貴方こなたと言うて、上品な言い方をしておるけれども、心の中では責め合うたり、心の中では不平不足を持ち合うたりしたのであっては、それは信心で言う不和のない家庭とは言えないのです。もう、肝心要の自分の心の中に不和がある。ね。
 それを、私は消して行くというか、それを有り難いものの中に溶け込ませるということは、どうでも、信心は日々の改まりが第一であるというところにです、焦点をおかせてもろうて。先生、私はどこば改まったらならよかですかというような人がありますけれども、答え様がない。ね。改まるというところは、もう、アンタ自身が一番分かっておらなければならないこと。
 本気で教えを鏡にして、ね、その鏡に映ずる自分の姿というものをです、見らせて頂いたら、はあ、どこが汚れとる、どこが曲がっとるということが、すぐ分かる。ね。そういうおかげを頂かなきゃならん。それから、ほんに今日は私は、あの、(おのえ)梅幸さんの鏡獅子の場面を頂いたんですけれどね。これは、どういうことじゃろうかと思うたら、昨日、竹内先生がお礼に出てみえられました。
 そしてから、昨日、家内が帰って参りましてから、十三日会でもう、大変有り難い十三日会じゃった。で、もう合楽で梅の花の信心が欠げておると言うので、もう皆がそこに焦点をおくことになって、一人ひとりの発表が素晴らしかったと言うて、言いよるところにある人がみえてからね、お土産を持って来ちゃった。 そのお土産が、○に金の字の、金毘羅さんのお土産と、それから、私とこの紋の梅鉢のついたね、包装をした何か御菓子らしいんです。それを頂いて、いやあ、本当にもう、神様がもう生き生きと働いてござることが、こんな中からでも分かる。今、合楽で梅の花の信心、梅の花の信心と言われておるのを、もう、本当に行じなければおられんごとあるねと言うて、夫婦で話しました。
 だから、これはもう、こちらへお供えさせて頂くと思って、持って来たと言うて昨日、お供えを頂きましたがね。そのことを頂くんですよ。梅幸さんと言やあ、梅の幸せと書いてある。私どもが本当に、梅の花の信心をもう一つ本気で、銘々のところで頂かせてもろうて、いわゆる梅幸のおかげ。しかも、あの、鏡獅子ということね。これは、獅子はね、子供を千尋の谷に突き落とすと言われる。
 そして、それは憎いからではなくて、這い上がって来るそれをね、こう、待っておるという、その話がございますでしょう。獅子は、それはやはり、獅子は百獣の王と言われるほどしのものですから、ね、弱い獅子であっては出けないと言うのですね、言うなら。金光様の御信心をさせて頂いておる者が、それこそ(一応?一億?)生神を目指すというほどしの素晴らしいことなのですから。ね。
 私どもが仮に、本当に生神を目指して信心させて頂いておるとするなあ、間違うなら蹴落としてからでもそこを這い登らせて力を付けてやろうという働きがある。金光様が、今度私どもにご返事も下さらなかったということは、もう、蹴落とされたような感じ。それでも私どもは、ね、這い上がろうとしておるのが、梅の花の信心に取り組むということになるのです。鏡獅子のその舞台の姿をね、頂いて、そんなことを感じさせて頂きました。どうぞ。